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― 包丁を握れなくなった日、全てが終わったと思った ―
異世界に行けなかった俺の半生。第5話【絶望編】包丁を握れなくなった日
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退院までにさらに3か月かかった。
最初の頃は、毎日のように誰かが見舞いに来てくれていたけれど、
時間が経つにつれて、だんだん人は少なくなっていった。
それでも母と妹だけは、ほぼ毎日顔を見せてくれたんだ。
父親は……たまにね。
腕は少しずつではあるものの、動くようになってきた。
当初はトイレにも行けなかったけれど、
自分で起き上がって多少の作業はできるようになった。
手先を使う細かい作業はまだ無理だけど、
それでも、腕そのものはまだ生きてるって感覚は確かにあった。
「料理は……無理だな」
自分に言い聞かせるように、ぽつりとつぶやいた。
それでも、自分で風呂に入れるようになった時、久しぶりに「俺、生きてるな」と思えたよ。
週に二回の入浴が本当に楽しみだった。
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そしてついに来た退院の日。
待ちに待った退院の日。
外の空気を吸った瞬間思わず笑っちゃったんだ。
ホント、「娑婆(しゃば)の空気がうまいぜ」ってね。
入院したことがある人ならわかるだろうけど、入院生活って本当に退屈なんだよ。
さて、どこに帰るか。
住んでいたアパートは保険と傷病手当金でなんとか借り続けていたけれど、
仕事もない今となっては、もう引き払うべきだろう。
そう思って、俺は実家に帰ることにした。
久々に足を踏み入れた実家。
あの荒れ果てた雰囲気は無くなっていた。
俺の退院にあわせて休みを取ってくれた父、母、妹。
久々にここで家族全員と顔を合わせた気がする。
「おかえり。よく頑張ったね」
母のその一言で、少し泣きそうになった。
「少し家でのんびりしておけ。何も気にするな」
父が言った。
──俺がまず最初にやらなければならないこと。
それは、亡くなった友人の家族への謝罪だ。
運転していなかったとはいえ、あの日、遊びに誘ったのは俺だ。
責任の一端は間違いなくある。
まず、ご両親とご兄弟に謝りたい。
そして、「許されたい」というずるい気持ちも、心のどこかにあったように思う。
友人の家を訪ね、俺の名前を伝えた瞬間、場の空気が変わった。
重く、冷たい空気。
言葉が出ない。
仏壇の前に飾られた友人の写真。
その笑顔を見たとき、ようやく実感した。
──もう、いないんだ。
「ごめん……」
その言葉だけを搾り出した。
ご両親は静かにうなずいた。
「いったい何が起きたのか」
ご両親に問われ、包み隠さず全てを話した。
そして、帰り際に言われた。
「もう、この家には来ないでほしい」
俺の顔を見るたびに、思い出してしまうから、と。
胸の奥がすうっと冷たく沈んでいった。
許しをもらえたのかどうかもわからないまま、
ただ、玄関先で何度も、何度も頭を下げ続けた。
自分が親となった今、あの時のご両親の気持ちが痛いほど理解できる。
あの日を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。
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仕事を探す前に、まずは体をなんとかしなきゃな。
折り紙を折ったり、リリアンを結ったり、ミサンガを作ったり。
手先の感覚を少しでも戻そうと、それまで一度もやったことのないことを、ひたすらやった。
毎日、飽きもせず。
紙の折り目が少しでもズレると、やり直し。
指先がちょっとでも思い通りに動くことが嬉しかった。
数週間も経つと、新しい生活にも慣れてくる。
そして――指先は、思っていた以上に回復の兆しを見せていた。
若いって、ほんとすごいよね。
折り紙もミサンガも、どんどん上達していく。
これって売り物になるんじゃ?と勘違いするレベルまで上手くなった。
両手両足は自分で作ったミサンガだらけ。
部屋の中には、誰のためのものかわからない大きな千羽鶴。
そうこうしているうちに、ふと、思ったんだよね。
「なんか料理したいな」
母も妹も、俺の作った料理を食べたがっていた。
だったら、毎日のご飯は俺が作るか。
どうせ無職だし、細かい作業がなければ、何か作れるだろう。
母が仕事から帰ってくると、二人でスーパーに行った。
「お金は気にしないで。美味しいものが食べたいの」
そう言われたら、料理人の血が騒ぐってもの。
その日から時には和食、時には中華、時には洋食。
いろんな料理を作った。
ただ――千切りや微塵切り。
包丁を使う作業だけは怖かった。
包丁を持つ手が震える。
慎重に、慎重に。
いや、無理だ。
野菜の刻みにはフードプロセッサーを使うことにした。
これ、俺が切るより細いんじゃないか?
それでも作った料理は評判がよかった。
気づくと、「なんか最近、晩ごはんが楽しみになった」
と、妹が仕事から早く帰るようになった。
夕食時は母・妹・俺の三人で笑いながら食事をし、
お酒も一緒に飲むようになった。
俺は調子に乗って、カクテルを勉強した。
せっかくだから、食卓もバーみたいに楽しくしてやろうと思ったんだ。
ジン、ウォッカ、ラム、テキーラ、ウイスキー。
リキュールもいろいろ揃えた。
ブルーキュラソーにアマレット、カンパリ、ベルモット。
本を片手に夜な夜な練習。
そんなある日、
「あの」父親が家に早く帰ってくるようになったんだ。
「みんなが楽しそうだから、俺も仲間に入れてほしかった」
そう言われて、少し驚いた。
母は苦笑いしてたけど、悪い気はしなかったよ。
気づけば、家族みんなで食卓を囲んでいたんだよね。
こんなの、小学生の頃…団地に住んでいた時以来だ。
「ありがとね」
母が言った。
俺は照れくさくて、笑いながら答えた。
「ま、無職だし、これくらいしないとね」
あの頃の暗闇が嘘みたいに
家の中は穏やかで、あたたかかった。
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▶ 次回 第7話【再生編・後編】
リハビリと人生の練習、動く手、動かない心。
異世界に行けなかった俺の半生。シリーズ
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- 家庭崩壊、教育虐待、家出──壊れた家族の中で、それでも“生き直そう”とした少年の原点の物語。
第1話 壊れた夜の匂い - 海外で見た自由と孤独――家庭崩壊から逃げた少年が、母との絆を取り戻すまでの再生記。
第2話【青春編】海外で見た“自由”と“孤独”、そして母との絆 - ― 包丁と涙で刻んだ“下積み時代” ―
第3話【迷走編】包丁と涙の下積み時代。 - ― 包丁と向き合い、職人としての道を歩き始めた ―
第4話【修行編】魚と格闘した板前の日々 - ― 包丁を握れなくなった日、全てが終わったと思った ―
第5話【絶望編】包丁を握れなくなった日 - ― 動かない手を見つめながら、もう一度生き直そうと思った ―
第6話【再生編・前編】動かない手、折れた心 - ― リハビリで手は動くようになった。けど、心はまだ止まってた ―
第7話【再生編・後編】リハビリと人生の練習、動く手、動かない心。 - ― 社会復帰した職場は、いじめと理不尽が渦巻く“地獄の入口”だった。 ―
第8話【社会復帰編】やっと掴んだ社会復帰のチャンス。そこは“地獄の入口”だった - ― 涙と笑いの中に、“生きる意味”が戻ってきた日 ―
第9話【社会復帰編・反撃】倉庫で泣いて、笑って、また立ち上がった日。 - ― 崩れていく会社の中で、最後まで“立ち続けた男”がいた ―
第10話【崩壊編】崩れゆく会社の中で、俺が見た“男の背中” - ― 壊れた会社。社長の信念、部長の意思。今度は俺が立て直す。 ―
第11話【新体制編】誰も動かないなら、俺が動く。 - ― 終わりじゃなかった。継がれた熱が、俺を動かした。 ―
第12話【継承編】崩壊した会社に、“もう一度、光を灯した男”の記録。 - ― 全てを燃やして。 ―
第13話【燃焼編】光で始まり、光に還ったひとつの物語。 - ― 無音の中に、“おかえり”が聞こえた。 ―
最終話【無音編】おかえりなさい
スピンオフ作品
- ― これは、「異世界に行けなかった俺の半生。」の もう一つの世界線の物語 ―
異世界に「転生した」俺の半生。第1話【再会編】もう一度、母に会えた朝。

