
▶ 前回(第3話)はこちら
神田の店で“オヤッサン”と出会い、
揚げ物・焼き物・煮物を学びながら確かな技を身につけていった主人公。
板前としての自信と未来が形になり始めた頃、さらなる技術を求めて新たな修行先へ向かう。
第3話 包丁の重さを知った朝
▶︎ 最初から順番に読む
海鮮料理屋で始まった新しい修行
「とにかく魚だ!魚を持ってこい!俺に捌かせろ!」
新たな修行先は神奈川県川崎の海鮮メインの料理屋さん。
実は同じ会社の系列店なので、オヤッサンとの今生の別れ的なヤツが、ちょっと恥ずかしい。
現状報告も兼ねて、月に2、3回はオヤッサンと飲んでたよ。
新しいお店には、喧嘩して辞めた最初の店と同じくらいの板前がいたが、今度は下っ端じゃない。
上から3番目の脇板として配属された。
焼き物、揚げ物の技術が評価され、後輩に教える立場にもなった。
やったぜ。
とにかく魚を徹底的に触ったよ。
刺身用の魚はもちろん、焼き物用、揚げ物用も触りまくった。
この店は規模が大きかったので、毎日大量の魚を捌くことができた。
水洗いと呼ばれる下処理から始まり、刺身にできるよう魚を柵取りしたり、マグロのコロ(ブロック)を柵取りしたり。
航空便で届く魚の中には、見たこともないような魚もいた。
毎日が魚、魚、魚。
でも穴子が泳いでいる生簀に、1匹だけウツボを入れるのは辞めてほしかった。
「タカアシガニ」の一件を思い出した。
関西仕様の裂き包丁と目打ちを買って、うなぎの捌き方も学んだ。
うなぎを捌く日は、賄いでうな丼が食べられるのがうれしかった。
一杯目は「タレご飯」、二杯目でやっと鰻丼だよな。
刺身を引く世界と、六桁の柳刃包丁
脇板として2年も修行していると、実際に刺身を引くようにもなる。
平造りにそぎ造り、薄造りに八重造り、松皮造りに細造り。
材料によって様々な引き方がある。
特にスジが多いマグロは注意が必要。
食べた時にできるだけスジが残らないよう、身の流れを見ながらスジを切るように引いていく。
懇意にしていた包丁屋さんで、新しい柳刃包丁を作った。
俺的に最高級の柳刃包丁だ。
1尺1寸、本焼きの青紙二枚、黒檀柄。
値段は高すぎてナイショだ。6桁はいくシロモノ。
華道が教えてくれた“盛り付けの美”
また、この頃からお花を習い始めた。
流派は華道家元池坊。
費用は会社負担で、毎週先生がお店に来て教えてくれた。
これは、今後の料理の盛り付けに絶大な効果があってね。
華道のセンスってすごいよ。和の全てが詰まってる。
立板の先輩が、親方になる勉強を始めたらしく、外出がちになった。
おかげで脇板ながら、俺が立板として板場に立つことが多くなった。
えっへん。
立板は楽しい。
何が楽しいって盛り付けが楽しいんだ。
お花で習った「真 副 体」で盛り付けると、本当にきれいにお造りを盛り付けることができる。
そこに様々な食材を細工した「妻」を飾り付ける。
初めて修行したお店で喧嘩の原因になった「かぼちゃに施した菊の花の彫刻」も、盛り付けの器として活躍した。
もう最高。
板前としての充実と、社会に認められた実感
海鮮料理屋を3年務めた後は、季節の料理を学ぶために、いくつかの店を渡り歩いた。
オヤッサンの店はどうしたんだって?
そんなのは、まだまだ先の話。
色々なお店の料理を勉強したい!という欲には勝てない。
通勤するのが面倒になり、家の近くの居酒屋に勤めたこともあった。
居酒屋は居酒屋で楽しい。
オヤッサンの店で1,500円で売っていた天ぷらを、680円で出したりもした。
得意満面な顔をしてね。
地元で働いていると、中学や高校の同級生や親戚も食べに来てくれた。
みんなが「美味しい美味しい」と言ってくれたので俺も幸せだった。
修行はきつかったけど、頑張った結果が出たんだな、と感じることができて嬉しかった。
やっと社会に認められた気がした。
・
・
・
運命を変えた夜
地元で働いていた頃、休みの日は学生時代の友達と遊ぶことが多かった。
仲間の中には働き始めてから、早速車を買った奴もいてね。
羨ましかったよ。
俺は免許を取りに行く時間がなくて、バイク止まりだったからさ。
そんなある夜、いつものように仲間3人でドライブを楽しんでいたんだ。
あの瞬間までは。
その友達は調子に乗って、車のスピードを上げ続けた。
緩やかなカーブに差し掛かった時、車は制御を失ってスピン。
そして――
俺たちが乗った車は、100km/h近い速度のまま電柱に激突した。
激突の瞬間に感じた、ものすごい衝撃。そして激突音。
車は、まるで紙細工のようにぐしゃりと折れ曲がった。
ボンネットから先が「く」の字に変形していた。
助手席に座っていた友達は、もう二度と目を開けることはなかった。
運転していた友達は右半身不随。
そして俺は…
後部座席から放り出されて頚椎を強打し、両腕がほとんど動かなくなった。
その日が、俺の人生を分けた日だった。
積み重ねてきた板前としての人生が、一瞬で終わった日だった。
6桁で買った柳刃包丁が、
俺の手の中で、ただの鉄になった。
次回
第5話 握れなくなった手の先でに続く
事故で両腕の自由を失い、板前としての人生が一瞬で途切れた主人公。
包丁を握れない現実と向き合いながら、深い喪失と再生への静かな時間が始まる。
絶望の先で、何が残ったのかを描く。
言葉の余韻を、もし感じたなら
ツギクルに参加しています。
もし、私のエッセイに感じたものがあったら、クリック頂けると幸いです。
コメント欄はありませんが、
X(旧Twitter)でそっと教えてください。
あなたの言葉が、次の物語の力になります。
▶ @atch-k
異世界に行けなかった俺の半生。シリーズ
▶︎ 最初から順番に読む
- 家庭崩壊、教育虐待、家出──壊れた家族の中で、それでも“生き直そう”とした少年の原点の物語。
第1話 壊れた夜の匂い - 海外で見た自由と孤独――家庭崩壊から逃げた少年が、母との絆を取り戻すまでの再生記。
第2話 海の向こうで呼吸した日 - ― 包丁と涙で刻んだ“下積み時代” ―
第3話 包丁の重さを知った朝 - ― 包丁と向き合い、職人としての道を歩き始めた ―
第4話 魚を捌く音だけが響いた - ― 包丁を握れなくなった日、全てが終わったと思った ―
第5話 握れなくなった手の先で - ― 動かない手を見つめながら、もう一度生き直そうと思った ―
第6話 動かない手と沈黙の部屋 - ― リハビリで手は動くようになった。けど、心はまだ止まってた ―
第7話 ゆっくり動き出した心の音 - ― 社会復帰した職場は、いじめと理不尽が渦巻く“地獄の入口”だった。 ―
第8話 社会の入口に立った朝 - ― 涙と笑いの中に、“生きる意味”が戻ってきた日 ―
第9話 倉庫で泣いて、また歩いた - ― 崩れていく会社の中で、最後まで“立ち続けた男”がいた ―
第10話 崩れる会社で見た背中 - ― 壊れた会社。社長の信念、部長の意思。今度は俺が立て直す。 ―
第11話 動かない執務室の真ん中で - ― 終わりじゃなかった。継がれた熱が、俺を動かした。 ―
第12話 折れた光をもう一度灯す - ― 全てを燃やして。 ―
第13話 光に還るまでの物語 - ― 無音の中に、“おかえり”が聞こえた。 ―
第14話 無音の帰り道
スピンオフ作品
- ― これは、「異世界に行けなかった俺の半生。」の もう一つの世界線の物語 ―
異世界に「転生した」俺の半生。第1話【再会編】もう一度、母に会えた朝。

