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― 終わりじゃなかった。継がれた熱が、俺を動かした。 ―
異世界に行けなかった俺の半生。第12話【継承編】崩壊した会社に、“もう一度、光を灯した男”の記録。
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新体制の幕開け
「あぁぁぁ!!春だな春!」
俺がそう叫んでいると、職人ドライバーが小さく笑った。
「春先になると、頭がアレになる人も多いからな。
部長、新体制の会議、急がなくてええの?」
そう。
資本が変わった後の人事通達で、俺は部長になった。
何が評価されたのかは知らないが。
あの日、倉庫に吹いた風の音を、今でも覚えている。
それは、再起動の音だったのかもしれない。
あれから数ヶ月。
会社の空気は、もう別の匂いに変化していた。
毎日着ている制服も、心なしか色が薄くなった気がした。
それが、合理主義の味なのかもしれない。
旧体制の幹部たちは、一人、また一人と去っていった。
あの憎たらしい、親の仇とまで思っていた「偉そうな役員」も、
何事もなかったかのように、静かに消えていった。
歓送会はない。
見送りもない。
ただ季節が変わるように、人が入れ替わっただけ。
俺は正式に、
「エリア統括部長 兼 江東店店長 兼 販売センター長」になった。
名刺の肩書きの長さは相変わらずだったが、人事という名の「採用担当」だけは外れることが出来た。
これで少しは落ち着いて、店舗にいられるかもしれない。
……ただ、何というか、喉に刺さった魚の小骨のような違和感があった。
あれから会社は大きく変わった。
新しく入った資本は、ファンド系の会社。
社名は無駄に長い横文字で、とても覚えにくい。
そしてロゴだけは、やけにスタイリッシュ。
新社長も、新幹部も、全員スーツが似合いすぎている。
爪の先まで清潔で、靴底に一つの汚れもない。
指先でタブレットを滑らせながら、
「まずは現場の声を吸い上げたい」と笑う。
その笑顔の裏に、
冷たい合理主義の匂いがする。
人の温度より、
数字の方が早く動く――そんな世界の匂い。
俺は、あの時の風の音を思い出していた。
あの風は、希望だったのか。
それとも、俺を襲う嵐の前触れだったのか。
また嵐?
……もう嫌だよ。
手土産と代償 ― 新社長との初交渉
初顔合わせの会議室は、やけに明るかった。
天井のLEDが白く反射し、机の上のペットボトルまで眩しい。
「初めまして。江東店のあっちけいです」
名刺を差し出すと、新社長は軽くうなずいた。
まだ四十代前半だろうか。
切れ長の目に、シルバーフレームの眼鏡。
光を弾くそのレンズ越しに、薄い笑顔が見えた。
ビジネス雑誌の表紙で腕でも組んでいそうな、そんな顔。
彼の横には、新しく就任した幹部たちの顔が並ぶ。
全員、同じようなスーツ。
同じようなペン。
同じような、まるでモノでも見るような目。
新社長による、テンプレートを読み上げたような就任挨拶が終わると、
順番に幹部たちも自己紹介を始めた。
ーーつまらん会議だ。眠い。
ファンド系。
要は、経営破綻したウチの会社をタダ同然で買い取り、
ちょっと立て直して高値で売る。
そんなやり口。
善意だけで、ウチの会社に金を入れたわけではない。
「次、江東店店長お願いします。」
俺は、手元の資料を静かに開いた。
纏めてきた案件のタイトルを、声に出す。
「会社携帯回線の切り替えと、ハンディ端末との連携改善報告です」
「?」
一瞬、空気が止まった。
新社長がタブレットから顔を上げる。
あの人の声が、ふと耳の奥で蘇った。
ーー『おう。そういえば、アレの件頼んだぞ。』
約束を果たすだけ。
ここまで来たら、誰のためでもない。
あの日の背中に、恥じないために。
「聞いてましたよ、あなたの事は色々と、前社長からね」
「……で、どのくらい削減できるんですか?」
「月間で、二百万以上」
会議室に、低いざわめきが走った。
紙の音。ペンのノック音。
数字の響きだけが、やけにリアルに聞こえた。
「やるとは聞いていたけど、本当にやるな」
新社長が笑った。
だが、その笑いには温度がなかった。
俺は軽く頭を下げる。
けれど、胸の奥では、まだ何かが引っかかっていた。
この笑顔のあとには、
たぶん“代償”がついてくる。
幹部の全員の発表が終わり、会議が終わると、新社長はタブレットを閉じた。
「今日はありがとう。各自提案の進捗を報告するように。」
その言葉を合図に、幹部たちは一斉に席を立つ。
ペンを片付ける音。
紙が擦れる音。
会議室の熱が、音もなく引いていった。
俺は立ち上がり、軽く咳払いをした。
「社長、少しお時間よろしいですか」
彼が足を止めた。
周囲を見渡し、「皆さん、先にどうぞ」とだけ言う。
扉が閉まる。
静けさが残った。
「先ほどの提案、採用していただきありがとうございます」
俺は軽く頭を下げた。
そして、わずかに間を置いて続けた。
「このタイミングで……一つお願いがあります」
新社長が椅子の背にもたれ、視線を向ける。
「販売センターを、江東店に異動させていただけないでしょうか。
これまで、管理職不在のまま運用しておりましたので、スタッフも不安に感じています。
本人たちに確認したところ、通勤は問題ないと回答を得ています。
現場とセンターを一体にして、もっと早く動けるようにさせてください。」
一息つくと、部屋の空気が少しだけ重くなった。
それでも、言ってよかったと思った。
新社長は少しだけ顎に手を当て、
何かを考えるように視線を落とした。
数秒の沈黙。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……なるほど」
「多少は検討しても良い提案ですね」
その声は穏やかで、まるで春の日差しのようにやわらかかった。
だが、その奥にある温度は、感じ取れなかった。
「確かに、現場とセンターをつなぐ体制には意味がある。
リソースは無駄にならないし、数字的にも多少の効果は出るでしょう」
一瞬、心の中で安堵の灯がついた。
だが次の言葉が、その火を静かに消した。
「ただ、あなたには、もう少し上の視点で動いてもらいたいんです」
ーー上の視点。
その響きに、どこか違和感があった。
「経営開発部に異動していただきたい。
本社に戻り、新規事業の中枢として、全体を見渡す立場で」
社長の目はまっすぐだった。
曇りも、迷いもない。
それが余計に、怖かった。
「販売センターは効率化させるため、外部への委託を進めます。
私は、この組織をゼロベースで再構築したい。
そのキーマンとして、あなたが適材だと思っています。」
言葉はきれいだった。
丁寧で、筋が通っている。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「販売センターの件は、
あなたの口からスタッフに伝えてください」
会議室の時計が、カチリと音を立てた。
その一音が、やけに大きく響いた。
……
ーーこれは切り離しだ。
俺は小さくうなずくしかなかった。
外の光がガラスに反射し、
白く、静かに揺れていた。
江東店の再生 ― 再起動の朝
朝の光が、倉庫のシャッターに反射して眩しい。
販売センターが合流してから、江東店の空気はすっかり変わった。
荷台を締める音、無線の声、笑い声。
全部が一つの呼吸をしているようだった。
――小さな会社の社長になった気分だ。
職人ドライバーが、工具箱を閉めながら言った。
「夢、一つ叶いましたね」
「そうですね。ここからですね」
自然と、笑みがこぼれる。
……だが、その瞬間。
新社長の声が、脳裏の奥で蘇った。
「販売センターは将来的に外部委託を予定しています。
私は、現場の業務を一から見直したい。
その調整役として、あなたが適任だと思っています。」
光の下で笑っているのに、
胸の奥では、あの冷たい声がまだ生きていた。
その日の午前、メールの通知が鳴った。
件名には、
「店舗対抗・新規顧客獲得レース開催のお知らせ」。
一瞬、眉が動く。
……レース、ね。
勝負事には燃える性分だが、現場の状態を考えると、
素直に喜べる話でもなかった。
確かに、この店舗は良くなった。
けれど、営業力はまだ無い。
でも、これをうまく使えば――
江東店の立場を上げるチャンスになる。
俺が居なくなっても、
――大丈夫なように。
路線便を出発させた後、
夜のミーティング。
全員が揃うのは久しぶりだ。
販売センター組も混じって、少し窮屈な倉庫。
前に立つと、ざわめきが静まった。
「本社から通達がありました」
手にしたプリントを掲げる。
「“店舗対抗・新規顧客獲得レース”を開催するそうです」
ざわつきが広がった。
中には小声で笑う者もいる。
「ウチみたいな現場に、営業なんて無理だろ」
「参加することに意義があるんだよ」
そんな声が聞こえた気がした。
俺は一呼吸置いて、全員を見渡す。
「確かに、今までの俺たちは“運ぶ”ことだけに集中してきました。
でも――“運ぶ”ってことは、“つながる”ってことでもある。
そのつながりを、今度は“広げていく”番です」
数人が目を上げた。
「できるかどうかじゃなくて――やるんです。
モデル店舗の力を、見せてやりましょう」
沈黙のあと、誰かが小さくうなずいた。
その一瞬の動きが、光になって見えた。
職人ドライバーの檄 ― 火を灯す声
レースが始まって、一週間が経った。
江東店の倉庫は、いつもより静かだった。
誰もが“何かしなきゃ”と思っているのに、
何をすればいいのか、誰も分からない。
新しいチラシは机の上に山積みのまま。
誰も手を伸ばさない。
「お客さん、チラシなんか見ないよな」
若いスタッフが笑って言った。
笑ってるのに、目は笑ってない。
配送の戻り時間が、少しずつ遅くなっていた。
積み下ろしの声にも、力がない。
フォークリフトの音だけが、
倉庫の奥で孤独に響いていた。
俺は事務所の椅子に座ったまま、
何度も同じメールを読み返していた。
――経営開発部への異動。
――販売センター、外部委託予定。
本社の文章は、
何度読んでも、体温を奪う。
このままじゃいけない。
頭では分かっているのに、
心が動かなかった。
「そうだ、各エリアのリーダーに指示しないと」
声に出してみた。
返事は、もちろんない。
「営業のやり方をマニュアルにして配布?
読まねえな、あいつら」
「横乗りしながら一緒に営業?」
言ってから、笑ってしまった。
どれも現実的じゃない。
どこから手をつけても、
全部が“間に合わない気がする”のだ。
外のベンチで缶コーヒーを飲んでいると、
職人ドライバーが、黙って隣に座った。
缶の口に影が落ちた。
「明日の朝礼、少しだけ俺に時間をください」
その時――
彼が、動いた。
朝礼の輪の中に、
重たい空気が沈んでいた。
誰も喋らない。
床に落ちた光だけが、
静かに動いている。
俺は前に立ちながら、
何を言えばいいのか分からなかった。
レースが始まって10日。
成果は、俺と職人ドライバー、各リーダーの実績のみ。
皆の顔に疲れが出ていた。
「……とにかくやってみよう」
それだけを絞り出した声は、
自分でも驚くほど弱かった。
沈黙。
誰も動かない。
その時だった。
「――店長に、恩を返す時がきたんちゃうんか。」
低い声が、倉庫の奥まで響いた。
空気が一瞬止まる。
全員の視線が、後ろを向いた。
職人ドライバーが、腕を組んで立っていた。
「あの、どうしようもなかった店舗を、
まともに配送も出来なかった店舗を、
ここまで良くしてくれたのは、誰や」
一拍置いて、
彼は前を見たまま言った。
「――おい、お前」
ベテランのドライバーを指差す。
「お前に、たった一人で、
免許も無いのに、三十人からいるドライバーと、真っ向からぶつかって、
店舗を良くしようなんて胆力があるか?」
「出来んよな。俺にもできんわ」
一瞬、息を吸う音が聞こえた。
「せやけどな――この店長は、やりよった。
お前ら、いつまで店長に甘えとんねん!!」
誰も動けなかった。
空気が震えた。
「営業なんて、簡単やぞ」
彼は一歩前に出て、言った。
「配達先にチラシ渡して、相手の目を見て、
“よそと勝負させてください”って言うだけや。
普段から客を大事にしてりゃ、必ず反応がある。
無けりゃ――今から客を大事にせぇ」
声は怒鳴ってもいないのに、
倉庫の隅まで届いた。
空気が揺れた。
全員、唖然としていた。
けれど、その静けさの中で、
何かが確かに動いた。
心に、火がついた。
朝礼が終わったあと、
誰もすぐには動かなかった。
いや、動けなかった。
倉庫の中に、熱の残り香が漂っていた。
声を出すと、その熱が消えてしまいそうで。
全員がそれぞれの持ち場に戻っていく。
誰も、言葉を交わさない。
でも、歩く足音だけは力強かった。
俺はその背中を見送りながら、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
あんな朝礼は初めてだった。
昼休み。
倉庫の隅では、職人ドライバーが一人、工具を磨いている。
その横に、俺は無言で座った。
しばらく何も言わなかった。
油の匂いと、風の音だけ。
「……さっきは、ありがとうございました。」
小さく呟くと、彼は手を止めた。
「礼なんかええです」
そう言いながらも、少し笑っていた。
俺は迷った。
でも、もう隠しておけないと思った。
「本社から、経営開発部に異動の話が出てます」
工具の音が止まった。
「それと……販売センターは、外注化の予定だそうです。」
言葉を置いた瞬間、
倉庫の空気が、静かに重くなった。
彼は、しばらく何も言わなかった。
指先で軍手をいじりながら、
ゆっくりと口を開いた。
「会社、変えたってください」
顔を上げると、
彼は真っすぐこちらを見ていた。
「店は、俺が見ておきます。
――店長が戻るまでの間。」
言葉が、風よりも静かに刺さった。
俺が、この店に戻ることは、ないだろう。
「販売センターのことは、“部長”が話さなあきませんね」
そう言って、笑った。
その笑いが、胸の奥で響いた。
この人がいる限り、
この店は、
大丈夫だと思った。
戦いの熱 ― 江東店の奇跡
数日後。
倉庫の空気が、いつもと違っていた。
誰も何も言わないのに、
全員の動きが少しだけ早い。
フォークリフトの音が、
やけに軽く聞こえる。
最初に声を上げたのは、
新人ドライバーだった。
「店長、新規ひとつ取りました!」
伝票を差し出す手が震えていた。
「ありがとう!
マジかよ。やったな……おい!」
自然に言葉が出た。
その一言で、
倉庫の空気が変わった。
昼には、二件。
午後には、五件。
報告に来るたび、
俺は一人ひとりに“ありがとう”を返した。
気づけば、笑い声が戻っていた。
あれほど荒れていた店が、
まるで別の職場みたいに。
夕方、倉庫で貨物の仕分け作業をしていると、
スマホの通知音が鳴った。
本社からのメールだった。
件名は、
「店舗対抗・新規顧客獲得レース速報」。
ダサいタイトルだ。
本社のセンスを疑う。
「もうちょっとこう、さ……かっこいいタイトルをさ」
「いいから、早く本文開いてくださいよ!」
開く前から、
リーダー全員が画面を覗き込んでいた。
――大阪市中央店 32件。
――名古屋栄店 28件。
――江東店 26件。
一瞬、静まり返った。
「……全国三位?」
誰かが呟いた。
次の瞬間、
倉庫の空気が弾けた。
「マジかよ!」
「江東が三位!?」
「いやこれ、嘘やろ!」
笑い声と歓声が、
トラックの間を跳ねていった。
いつもなら音が反響するだけの倉庫が、
今日はまるで別世界みたいだった。
続いて、メールが届いた。
件名は同じ。
本文に、こう書かれていた。
――“今週の主役は江東店やな。まだまだ頼むで”
ん? 本社からじゃないな。
……携帯メール?
2階の事務所を見上げると、
職人ドライバーが笑っていた。
この人、悪魔みたいに人の心を煽るな。
それでも、
その一文が燃料になった。
誰も座らない。
誰も止まらない。
倉庫の奥まで、
熱が走った。
夕方。
配送から戻ってきたトラックが、
次々と倉庫に入ってくる。
みんな疲れているはずなのに、
表情が軽い。
「店長、今日も二件いきました!」
「こっちも三件! たぶん、明日も続きます!」
報告の声が飛び交うたびに、
フォークリフトのエンジン音まで明るく聞こえた。
その中に、一人だけ、
何も言わずに伝票を渡すドライバーがいた。
無口で、いつも誰とも話さない。
ポツンと一人でいることが多い。
それでも仕事はキッチリこなす。そんなドライバーだ。
「お疲れ!どうした? なんかあったか?」
それだけ言うと、彼は黙ってうなずいた。
すると、後ろから別の声が飛んだ。
「店長! 俺の分、あいつの成績につけといてください!」
「は? なんでお前の?」
「だって、あいつも一緒に営業回ってくれたんすよ。
それでゲットした案件なんで。」
無口な彼が、
少しだけ照れくさそうに笑った。
倉庫の奥で誰かが拍手した。
それが連鎖して、笑いに変わった。
言葉は少ないのに、
気持ちは確かにつながっていた。
翌週。
朝の積み込みが始まる前から、
倉庫の外に見慣れない顔が並んでいた。
委託のトラックドライバーたちだ。
「おはようございます!」
その声が、やけに明るい。
「なんや、えらい早いな」
職人ドライバーが笑うと、
一人が照れくさそうに頭をかいた。
「昨日、話聞いたんすよ。
営業レースで、江東が上位走ってるらしいじゃないですか。
……俺らも、何か手伝おうかなと思って」
朝の空気が、一瞬止まった。
職人ドライバーが笑って言った。
「そんなん言われたら、断られへんやんけ。
――百件くらいでええで」
笑いが広がる。
その輪に、自然と委託ドライバーたちも混ざっていった。
午前中の現場回り。
どのトラックも、チラシを積んで出ていった。
昼過ぎ、次々に報告が入る。
「一件取りました!」
「俺も!」
「まじか、傭車まで営業してるぞ!」
もう、誰も指示なんてしていない。
当たり前の様に営業している。
あの江東店が。
「この店は、もう小さな会社だ。
自分たちの売上で、しっかり生きていけそうだな。」
倉庫の外で、
トラックの排気音が重なって響いた。
それが、最後の戦いの音に聞こえた。
勝利の瞬間 ― モデル店舗誕生
最終日。
全国ランキングは、江東店が二位。
あと十件で、首位に届く。
絶対にやってやる!
倉庫の朝礼は、
いつもより少しだけ静かだった。
緊張でもなく、焦りでもなく、
“もう一歩”の空気。
みんなが前を向いていた。
「店長、今日、どうします?」
職人ドライバーが、笑いながら聞いた。
「どうするって、行くでしょ」
気づけば、二人で同時に笑っていた。
そのまま、営業車のキーを手に取った。
「どこ行きます?」
「行ったことないとこ行こう」
「もしかして、担当エリア外ですか?」
「そりゃそうでしょ。最後だもん。
お隣さんが営業しないのが悪い」
笑い声が、倉庫に弾けた。
みんなも笑っていた。
外は晴れていた。
空の青さが、いつもより少し濃く見えた。
昼過ぎ。
スマホが鳴った。
販売センターの部下からだった。
「店長! 今、全国トップと五件差です!」
営業資料を挟んだクリップボードを持つ手に、力が入った。
「五件か……」
運転席の職人ドライバーがニヤリと笑った。
「まだまだいけるな」
「ほな行きますか」
「行こう」
エンジンを踏み込むと、
営業車のボロいハイエースがうなりを上げた。
担当外のエリアを越えて、
俺たちは次の現場へ向かった。
「これ、完全にルール違反の遠征やないですか」
「そんな会社かよ。いいのいいの、最後なんだから。
なんか言われたら、“間違いました”って言っとくし」
中央区に向かう交差点で信号待ちの間、
車内のスマホがもう一度鳴った。
「店長! 二件差です!」
「了解!」
信号が青に変わる。
同時に、二人の笑い声が重なった。
「なあ、これ……ほんとに勝てるかもな」
窓の外を、夕方の光が流れていった。
昼を過ぎても、ハイエースは止まらなかった。
信号で止まるたび、エンジンが苦しそうに唸る。
「店長、このボロ。今日が限界やね」
「俺らもな」
笑いながら、また走った。
午後三時。
スマホが震えた。
販売センターからのLINEだった。
――“あと一件でトップです!”
画面を見た瞬間、
心臓が一拍、早く動いた。
……相手も、必死だ。
「あと一件だってさ」
「聞こえました。……行きましょか」
次の瞬間、
車はまた走り出した。
夕方の光が傾いていく。
街の看板が、赤く染まっていた。
「もし勝てたら、どないします?」
「そうだな。……賞金であのボロい店の看板、綺麗に直しますか。」
「それ、前から気になってましたわ。」
くだらない会話が、
やけに心地よかった。
風が強くなった。
遠くで、トラックのクラクションが鳴った。
それが、戦いの合図みたいに聞こえた。
夜、帰りの車の中。
フロントガラスに、街の明かりが流れていった。
スマホが震えた。
販売センターのグループLINE。
――“江東店、ついにトップになりました!!”
一瞬、息が止まった。
職人ドライバーが、
ゆっくりとスマホをのぞき込む。
「……ホンマ、ですか」
エンジン音だけが、車内に残った。
俺は何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
手の中のスマホが、
かすかに熱を持っていた。
「……やりましたね」
彼がそう言った。
「後は、今日みんなが、どれだけ取ってきてくれたか
……ですね」
それだけ言うのが、精一杯だった。
街のネオンがフロントガラスを流れていく。
それが、涙のように見えた。
翌朝。
いつもの倉庫が、やけに明るく見えた。
朝日が壁の鉄板を照らして、反射が眩しい。
全員が集まっていた。
本社からの報告を待つ顔が、もう笑っていた。
ヴーヴーヴー。
本社からの着信。
「はい。……わかりました。
ありがとうございます」
息を整えて、口を開いた。
「……結果、出ました」
空気が、一瞬止まる。
「江東店――全国トップです」
その瞬間、
どこかで誰かが拍手をした。
それが連鎖して、倉庫が揺れた。
笑い声と涙が混ざっていた。
肩を叩く音が、次々と響いた。
女性ドライバーが近づいてきて、
一言だけ言った。
「店長、やりましたね。
……マジすごいです!」
俺は笑おうとしたけど、
うまく笑えなかった。
胸の奥が、熱くなっていく。
「ありがとう。
凄いのは、俺じゃなくて、みんなだけどね」
「ありがとう」
気づけば、もう一度、
同じ言葉を繰り返していた。
誰にも気づかれなかったけど、
目の奥が、少し滲んだ。
本社の会議室は、
いつもより少しだけ、ざわついていた。
スクリーンには、
全店舗の営業結果が映し出されている。
営業本部長が淡々と報告を終えると、
静寂が落ちた。
その沈黙を破ったのは、社長だった。
「……江東店、すごいな」
短く、それだけ。
数秒の間を置いて、
もう一言。
「お前が言ってた“モデル店舗”、
見に行くよ」
何かが静かにほどけた。
この瞬間、
あの店が“本物のモデル店舗”になった。
別れと引き継ぎ ― 継承の朝
朝の倉庫は、いつになく明るかった。
まだ早い時間なのに、
誰もがもう笑っていた。
「皆さん。まずは本当に、お疲れさまでした」
声を出した瞬間、
胸の奥が少しだけ震えた。
「優勝です。
江東店、全国一位。
これは、営業力が全国トップである証です。
配送品質についても、
もはや私から言うことはありません」
拍手が起きた。
でもその音よりも、
笑い声のほうが大きかった。
俺は少し笑って、続けた。
「就任当時は……皆さんにいじめられて、
何度逃げようと思ったか分かりません」
「えー!」
「今、そんなこと言います?」
笑いとツッコミが返ってくる。
「でもね。あの頃は本当に、
毎日が戦場みたいでした」
会場がまた笑った。
その笑いの奥に、
懐かしさが滲んでいた。
拍手が静まるのを待って、
俺はもう一度、皆を見渡した。
「……でも、あれからこの店は本当に変わった」
誰かが小さくうなずいた。
「今は胸を張って言える。
ここが――この会社のモデル店舗です」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少し熱くなった。
「いろんなことがあったけど、
みんなで乗り越えることが出来た。
本当に、ありがとう」
誰も喋らなかった。
ただ、静かに笑っていた。
拍手が静まり、
倉庫にまた静けさが戻った。
俺は少しだけ間を置いて、言った。
「これまで、免許も無い私を、
この店の店長として育ててくれて、ありがとう。
本当に大変な日々でしたが、
現場の大変さを、骨の髄まで知ることが出来ました。
多分、私はこの店を一生忘れない」
一呼吸おいて、もう一度、声を出した。
「――そして。
この店を、次に託します」
ざわめきが起きた。
「今月末をもって、私は経営開発部長として本社に戻ります。
皆さんと一緒に培った経験をもとに、新しい事業を作り上げるつもりです。
そして、この店の新しい店長は――」
視線をゆっくりと、職人ドライバーに向けた。
「彼です」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、拍手が広がった。
「死にかけやけどな。
老骨に鞭打って、もう少しだけやりましょうかね」
彼は笑いながら、頭をかいた。
「もう立派な店長ですよ。
でも、彼が好き勝手するようなことがあれば――
エリアリーダー。やっちゃってください」
笑い声とどよめきが重なった。
倉庫の天井に、音が柔らかく響いた。
拍手が、いつまでも鳴り止まなかった。
倉庫の空気が揺れていた。
みんなの笑い声が、どこか遠くに聞こえる。
俺はゆっくりと頭を下げた。
何も言わずに、
ただ、深く。
顔を上げた時、
職人ドライバーと目が合った。
彼は笑っていた。
いつもの、あの笑い方で。
その瞬間、
背中を包んでいた空気が、静かにやわらいだ。
外の光が差し込んできた。
埃が、ゆっくりと舞っていた。
誰にも気づかれないように、
小さく息を吐いた。
最後の面談 ― それぞれの選択
事務室の空気が、少し重かった。
誰も喋らない。
壁の時計の音だけが、やけに大きく響いていた。
机の上には、配布用の資料が並んでいる。
白い紙の上に、“外部委託”の四文字。
俺は深呼吸して、口を開いた。
「……来月末をもって、
販売センターの業務を外部委託することになりました」
静寂。
目の前の誰も、顔を上げなかった。
ゆっくりと、紙の端を指で押さえている人がいた。
「これまでやってきた仕事を、
別の会社が引き継ぎます」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
何かを飲み込むように、
全員が小さくうなずいた。
誰も責めなかった。
誰も泣かなかった。
ただ、
静かに現実を受け入れていた。
個別面談。
販売センターの進路は三つ。
委託先への移籍
別部門への移動
そして……退職。
最初に入ってきたのは、別部署から移動してきた、倉庫スタッフの彼女だった。
「私、結婚が決まりました」
そう言って、小さく笑った。
「おめでとう。……本当に、良かったね」
声が少しだけ震えた。
彼女は軽く頭を下げて、
「短い間でしたけど、ここで働けて良かったです」と。
ほんの一瞬、
言葉のあとに、静かな間が落ちた。
外の光が、ブラインドの隙間から差し込む。
その光の中で、彼女の笑顔だけがはっきりと見えた。
落ち込んだ気持ちが、少し温かくなった気がした。
外の風が、倉庫の壁をなでていった。
——次に入ってきたのは、もう一人の倉庫スタッフの女性。
彼女は真っすぐにこちらを見て言った。
「私は、委託先でもこの仕事を続けたいです。
この仕事、好きですから」
「そうか。ありがとう。
委託先でもみんなを頼むね」
そう返すと、彼女は小さくうなずいた。
その目には、しっかりとした覚悟があった。
時計の秒針が、静かに進む音が聞こえる。
——三人目は、「あの」フルタイムのアルバイト。
入ってくるなり、いきなり言った。
「辞めます。
でも……本当は、辞めたくないです。
この仕事、慣れてるし、楽しかったし」
言葉が詰まって、
次の瞬間には泣いていた。
「最初、主任…いや店長のこと、めっちゃ嫌いでした。
頼りなくて、仕事もできなくて。
でも、途中から凄いなーとか、強いなーとか。
いつの間にか、ずーっと遠くに行っちゃって。
でも、一緒に仕事できて、楽しかったです」
「最初はいじめられたよね。
でもここまで残って、頑張ってくれてありがとう。
本当に心強かった。」
そう言って笑うと、彼女も笑った。
泣きながら。
外からフォークリフトの音が遠くに響いた。
——最後に来たのは、俺が葛飾の倉庫で採用した部下だった。
椅子に座ると、
いつものように腕を組んで笑った。
「俺は、委託先でもこの仕事続けます。
向こうでも、ここと同じ空気にしたいんで」
「……ありがとう」
それだけしか言えなかった。
「また、どこかで一緒にやりましょう。
何かあれば、いつでも助けに来ますよ。
飲みの誘いは大歓迎です。」
そう言って立ち上がる彼の背中が、
なぜか、やけに力強く見えた。
誰もいなくなった事務所で、
イスがひとつ、少しだけ揺れていた。
視線の先には、
ブラインドの隙間から射す、細い光。
あの時。
――江東店に就任したときと、同じ光。
それが何を意味するのか、
その時の俺は、まだ気づいていなかった。
面談がすべて終わると、
販売センターは、急に静かになった。
机の上には、印鑑の押された書類が並んでいる。
紙の匂いと、少し冷たい風。
時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
机の上の書類に手を伸ばした瞬間ーー
右腕の感覚が、すこし遠のいた気がした。
事故で動かなくなった腕。
リハビリで、ようやく動くようになった指先。
俺にとって右腕だった販売センター。
左腕だった江東店。
――俺はまた腕を、失ったのか。
ブラインドの隙間から射す光が、
そっと心の奥に滲んでいった。
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▶ @atch-k
🔜 次回予告
江東店を後にする俺。
新天地で起きる、問題の数々。
それでも俺は人生をやり直す。
――次回、最終話【無音編】
異世界に行けなかった俺の半生。シリーズ
▶︎ 最初から順番に読む
- 家庭崩壊、教育虐待、家出──壊れた家族の中で、それでも“生き直そう”とした少年の原点の物語。
第1話【原点編】母の暴力から逃げた夜、すべてが壊れた - 海外で見た自由と孤独――家庭崩壊から逃げた少年が、母との絆を取り戻すまでの再生記。
第2話【青春編】海外で見た“自由”と“孤独”、そして母との絆 - ― 包丁と涙で刻んだ“下積み時代” ―
第3話【迷走編】包丁と涙の下積み時代。 - ― 包丁と向き合い、職人としての道を歩き始めた ―
第4話【修行編】魚と格闘した板前の日々 - ― 包丁を握れなくなった日、全てが終わったと思った ―
第5話【絶望編】包丁を握れなくなった日 - ― 動かない手を見つめながら、もう一度生き直そうと思った ―
第6話【再生編・前編】動かない手、折れた心 - ― リハビリで手は動くようになった。けど、心はまだ止まってた ―
第7話【再生編・後編】リハビリと人生の練習、動く手、動かない心。 - ― 社会復帰した職場は、いじめと理不尽が渦巻く“地獄の入口”だった。 ―
第8話【社会復帰編】やっと掴んだ社会復帰のチャンス。そこは“地獄の入口”だった - ― 涙と笑いの中に、“生きる意味”が戻ってきた日 ―
第9話【社会復帰編・反撃】倉庫で泣いて、笑って、また立ち上がった日。 - ― 崩れていく会社の中で、最後まで“立ち続けた男”がいた ―
第10話【崩壊編】崩れゆく会社の中で、俺が見た“男の背中” - ― 壊れた会社。社長の信念、部長の意思。今度は俺が立て直す。 ―
第11話【新体制編】誰も動かないなら、俺が動く。 - ― 終わりじゃなかった。継がれた熱が、俺を動かした。 ―
第12話【継承編】崩壊した会社に、“もう一度、光を灯した男”の記録。 - ― 全てを燃やして。 ―
第13話【燃焼編】光で始まり、光に還ったひとつの物語。 - ― 無音の中に、“おかえり”が聞こえた。 ―
最終話【無音編】おかえりなさい
スピンオフ作品
- ― これは、「異世界に行けなかった俺の半生。」の もう一つの世界線の物語 ―
異世界に「転生した」俺の半生。第1話【再会編】もう一度、母に会えた朝。

