異世界に行けなかった俺の半生。最終話【無音編】おかえりなさい

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江東店との別れ ― 新しい肩書きと静かな始まり

江東店の朝礼が終わったあと、
俺は販売センターの仲間たちに深く頭を下げた。

「ありがとう。」
「また……ね」

言葉の途中で、声が少し震えた。
笑って誤魔化したが、誰も笑わなかった。

販売センターの業務委託については、
段取りを整えた。

あとは、部下たちに任せるだけだ。
引っ越しの段取りも問題ない。
きっと、江東店のみんなが――
プロの引っ越し屋以上の仕事をしてくれる。

顔を上げると、
職人ドライバーが静かに頷いた。

「会社、変えたってください。」

あの言葉を胸に残し、
俺は本社へ戻った。

店の新しい看板が、少しずつ遠ざかって行った。

経営開発部 ― 静かな部屋と動き出す手

名刺の肩書きが変わっていた。
「経営開発部 部長」

印刷された文字を見ても、実感が湧かなかった。
手の中で、その紙が少し重く感じた。

本社の廊下は明るいのに、
どこか冷たい。

経営開発部──
そこには、主任ひとりと、事務員は男女ふたり。

主任は現場へ出たまま戻らず、
事務所には、重たい沈黙だけが漂っていた。


机の上に、未開封の段ボールが積まれていた。
伝票は重なり、誰の手にも触れられていない。

誰もが、何かを待っている。
だが、何を待っているのか分からない。

そんな空気だった。

俺はスーツの袖をまくり、
黙って一番上の箱を開けた。

ダンボールの隙間には、
ほこりをかぶったハンドソープとマスクの箱。

新品なのに、
もう“くたびれて”いるように見えた。


少しの静寂。

天井の蛍光灯が、わずかに点滅した。

その瞬間、
俺はここで、何かを――
“やり直さなければいけない”んじゃないか。

そんな気がした。


経営開発部が抱えていた事業。
それは「既存店舗活用事業」だった。

本業の物流を基盤に、
別に立ち上げられた新しい試み。

オフィスの衛生用品を、定期的に補充する。
企業の“清潔”を支える、そんな構想。

扱う商品は、ハンドソープ、除菌ウェット、マスク。
どれも、必要とされるものばかりのはずだった。

だが、現場はすでに、疲れ切っていた。

在庫の管理は拙く、
効率度外視の補充ルートは、まるで迷路。

誰も、全体を把握していない。

主任は毎日現場に出たまま、
戻ってこない。
二人の事務員が、
言葉少なに報告書をまとめていた。

部屋の隅に積まれた段ボール。
その上には、未使用の伝票束。
現場で使われることのない“道具”だけが残っていた。


昼過ぎ。
現場から電話が鳴った。
主任の声は疲れていた。

「すみません、今日も補充、間に合いそうにないです」

「無理をしないで。明日に回していい」
そう返したが、返事はなかった。

電話の向こうで、
誰かが台車を押す音がした。

その音が、妙に遠く聞こえた。


机の上には、出し忘れた報告書。
角が少し折れていた。

俺はそれを見つめながら、
“どこから直せばいいのか”を考えていた。

だが、考えても答えは、すぐには出てこなかった。

現場改善 ― 小さな希望と再びの息吹

バックオフィス業務が落ち着いたのを見て、
現場に足を運んだ。

配送店舗の片隅を間借りして、作業を進めるスタッフたち。
配送業務の邪魔にならないよう、
静かに動いている。

そんな風に見えた。

主任の姿が見えたので声をかけた。

「ちょっと混乱してるみたいだけど、実際どんな状態?」

「はい……」

胸の奥に溜まっていた言葉が、
静かにこぼれた。

新規事業を立ち上げると聞き、
その主任に選ばれて、嬉しかった。

俺という、“結果を出してきた人間”の部下になれるのが、
誇らしかったと。

けれど、待てど暮らせど俺は来ない。
誰にも相談できないまま、
気づけばここまで来てしまった。

「そうか……すまなかった」

俺だって、遊んでいたわけじゃない。
しかし、主任がどれだけ過酷な環境で
ここまで耐えてきたか。

それだけは分かった。
俺も、同じだったから。


その後、
電動アシスト自転車と、自転車に接続する台車を導入した。
現場スタッフの足を、少しでも軽くしたかった。

台車を引きながら歩く五キロの往復が、
嘘のように短くなった。

次に、作業拠点を移した。

「既存店利用のコンセプトから外れる」
社長の猛反発に遭ったが、
基盤を整えないことには話にならないと、強引に押し通した。

配送店の片隅から、空き部屋になっていた本社の二階へ。
陽の当たる場所に机を並べ、棚を組み替えた。

事務員が工具を持って、
ネジを締めている。
その横で、俺はコードを束ねていた。

「なんか、家の引っ越しみたいですね」

そう言って笑った彼女の声が、
久しぶりに明るく聞こえた。


俺はその後も、できることから、手を出していった。
クラウドの管理システムを改修し、
在庫数の入力ルールを決め直した。
補充ルートも、無理が生じないように固定した。

小さなことを、ひとつずつ整えていく。
それだけで、
部屋の空気が少し柔らかくなった気がした。

ーーああ、江東店を思い出すな。

蛍光灯の光が、白すぎなくなった。
笑い声が、小さく返ってきた。

このまま続ければ、
何とか形になるかもしれない。

その夜は、
久しぶりに眠れた。

財務の現実 ― 崩れる数字と耳鳴りの夜

改善も少しずつ進み、
現場はようやく落ち着きを取り戻していた。

すべての歯車が、
静かに噛み合い始めていた。

だが、財務経理から取り寄せた「損益計算書」を見た瞬間、
すべてが崩れた。

どう試算しても、赤字。赤字。赤字。

既存店舗の利用、人員の削減、仕入れの調整。
どう工夫しても、赤字になってしまう。

顧客が増えれば増える程、損失が膨らむ負のスパイラル。
仕組みそのものが、逆に傾いている。

ーーこれは、まずい。

電卓を叩くたび、
数字の音が胸に響く。

「減価率70%超え……? そんなはずはない」

指先が冷たくなった。
ページをめくるたびに、
静寂が深くなっていく。

ーーこれは、無理だ。

蛍光灯の下、
報告書の白がやけに眩しかった。

その夜、
初めて「耳鳴り」がした。

とても小さな、耳の裏で鳴る音。

その日、俺は、
ーーこの事業の撤退を心に決めた。


会議室。

社長と役員を前に、
新規事業の撤退を進言した。

だが、それはあっさりと却下された。

「まだ、何もやっていないよね。」
「やれることは、まだまだあるはずだろう?」
「あなたがここに来た意味を、考えてください。」

その言葉を聞いた瞬間、
何かが、胸の奥できしんだ。

ーーああ、またか。

どこかで、聞いたような声だった。
荒れ果てていた江東店の、あの頃と同じ音。

「人員を減らしてでも、あの事業は継続する」
「在庫は、何度も回して対応しろ」

理屈は分かる。

だが、それは、
事業を信じ、必死で働いている従業員に対する裏切り行為だ。

いつ消えてなくなるかも分からない仕事。
自分の墓穴を、自分で掘るようなもの。

そんな仕事は、させたくなかった。


「戦略的撤退じゃなく、人間的撤退をしたいんです」

何度も伝えたが、
彼らの表情は、動かなかった。

――ファンドの合理主義者が聞いて呆れる。

会議室のガラスに、
自分の顔だけが映っていた。

その表情が、
少しだけ他人のように見えた。


主任、事務員を含めたスタッフには、
現状を隠さなかった。

「責任者不在の中、みんなで力を合わせてくれた結果、
 この事業は、少しずつ良くなってきている。

 ……でも、
 この事業は、持たない。
 俺の力不足だ。本当に申し訳ない。」

言葉を選ぶたびに、
喉の奥が熱くなった。

「本日から、補充ルートには余裕を持たせていい。
 空いた時間は、就職活動に充ててもらって構わない。

 他の部署を希望するなら、俺が口を利く。
 相談があれば、いつでも乗る。

 全員の行き先が決まるまで、
 この事業は続けるつもりだ。

 だから……焦らなくていい。」

誰も返事をしなかった。

沈黙だけが、返ってきた。


夜。

眠れなかった。

部屋の明かりを落とし、
机の上を、何度も拭いた。

拭いても、拭いても、
同じ場所を磨いていた。

それが、
世界と自分を繋ぐ最後の作業のように思えた。

指先の動きが止まると、
耳鳴りがした。

最初は、小さな音。
それが、少しずつ近づいてくる。

蛍光灯の残光が、天井に滲んでいた。

その光が、
息をしているように揺れて見えた。

ーー俺は、まだ大丈夫だ。

そう呟いた。
でも、その声は、既に自分のものではない気がした。


翌日。

出社しても、誰の顔も見なかった。
主任は現場、事務員は外回り。
電話も鳴らない。

静かすぎる部屋で、
コピー機のファンだけが、かすかに唸っていた。

画面に向かって、
数字を打ち込む。
だが、何をしているのか分からなかった。

手が、勝手に動く。
指先がキーボードを叩く。
思考と動作が、別々に動いている。


昼になっても、食欲はなかった。
コンビニの袋を開け、
おにぎりを半分だけ食べた。

味がしなかった。

机の上に残った半分を見つめながら、
「もったいない」と思う気持ちさえ、湧かなかった。


午後。
社長からメッセージが届いた。

『今日の進捗を共有してください。
 経営開発部の役割を、もっと明確に。』

文字を読む目が、途中で止まった。

まるで別の言語を見ているようだった。

返信を打とうとしたが、
指が動かなかった。


夕方。
窓の外の光が、ゆっくりと色を失っていく。

その光の消え方が、
妙にきれいだと思った。

それが、今日唯一の感情だった。


数日が経った。

出社したのかどうか、思い出せない日があった。
パソコンの電源を入れた記憶はある。
だが、その先の映像が抜け落ちている。

誰かが話しかけてきた気がする。
それに、返事をした気もする。
ただ、その声が誰だったのか、思い出せなかった。


夜。
机の上に、書類が山のように積まれていた。

どこから手をつけていいか、もう分からなかった。

指先に力が入らない。
マウスを握る手が、少し震えていた。

息を吸うのも、億劫だった。

耳鳴りが、また大きくなった。


家に帰ったのは、何時だったか。
靴を脱いだところで、動けなくなった。

玄関の灯りが、やけに白く見えた。

その光が、自分の影を床に貼りつけていた。

しばらく、その影を見ていた。

自分が、そこに居るのか分からなくなった。


気づけば、夜が明けていた。

机の上に、出しかけの退職届。
ペン先の跡が、途中で止まっていた。

俺は、それを見つめていた。

ただ、それだけをしていた。

内部調査 ― 搾取構造と無感情の境界

商品の仕入れ値が異常に高い。

一人で内部調査を進めるうちに、
商品の仕入れ先が、自社と同じ資本系列であることに気づいた。

請求書の数字を追っていくと、
取引価格が不自然に高い。

同じ系列会社の中で、
片方が利益を吸い上げ、
もう片方が赤字を背負っていた。

高値取引。
搾取構造。

怒りは湧かなかった。

「まあ、そういうもんだろ。」

机の上の資料を閉じた。
指先が、冷たかった。

崩れていく秩序 ― 静かになる職場、凍る心

一人、また一人と辞めていくスタッフたち。

主任が辞めても、
心は特に動かなかった。

「静かになって助かる」

そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに折れた気がした。


ペンを直角に並べ、
書類を等間隔に揃える。

秩序を保たなければ、
自分が崩れてしまう気がした。

机の上が整うたび、
胸の中のノイズが少しだけ静まった。


サービス提供エリアを、港区と千代田区に絞った。
現場を縮小していくと、
経営開発部はさらに静かになっていく。

それが、
安心に変わっていった。

新聞を開くと、
“資本元のファンド会社、倒産” の文字が目に入った。

この会社が、
「また」倒産の危機に晒されている。

しかし、何も感じなかった。
まるで、遠い国の出来事のようだった。

そういえば、若い頃、
ニュージーランドに留学した時も、
日本を見てそう感じていたな。

ハハッ。

おかしくなかったが、
笑いが出た。


一人で、事業譲渡の交渉を始めた。

対象は、
この「既存店舗活用事業」。

資本がまた変わるので、
うるさい社長も役員も、もう何も言わなかった。

こうして、新規事業の撤退が決まった。

事業譲渡 ― 四百万円の終わりと孤独な手続き

事業譲渡契約が、ようやくまとまった。
譲渡先は、交渉を続けていた大手通信会社。

在庫の処理。
機材の引き渡し。
帳簿の整理。

全ての工程を、
俺は一人で進めた。

事業の売却額は、四百万円。
それが、この事業の“終わりの値段”。

結構やるな俺。
意味もなく自画自賛した。


引き渡しの日。

担当者が4tトラックで来た。
俺と、女性事務員の二人で対応した。

書類にハンコを押し、
箱を積み終えると、彼女が小さく笑った。

「これで、終わりですね。」

俺は頷いた。
言葉が出なかった。


トラックのエンジンがかかる。
低い音を残して、ゆっくりと走り出した。

その音が消えると、
事務所が、静かになった。

蛍光灯のうなりだけが、
かすかに響いていた。


その週の金曜、
女性事務員が退職した。

机の上に、置き手紙があった。
白い便箋に、短い言葉が書かれていた。

お世話になりました。
ありがとうございました。

その文字が、
やけに整っていた。

俺は、その紙を折りたたみ、
机の引き出しに入れた。

そして、引き出しを閉めた瞬間、
部屋が、完全に静かになった。

再び呼び戻される現実 ― 管理本部 副本部長

前の社長が、
会社を買い戻した。

と、いうのも──
今度の新社長は、前の社長だ。

分かりづらくて、
説明するのもめんどくさい。

まあ、
どうでもいいことなんだけれど。

再び、同じ場所に戻る。
だが、空気はまるで違っていた。


ある日、電話が鳴った。

「新体制が、お前に残ってほしいと言っている」

電話の向こうで、
前任の社長が淡々と言った。

「俺を好きに使えると、思わないでくださいよ」

気づけば、口が勝手に動いていた。
怒りではない。
反射だった。


四度目の説得で、
俺は折れた。

断る気力が、無かったと言っていい。

ただ、
流されただけ。

新しい肩書きは、
「管理本部 副本部長」だった。
役員の一歩手前。

主な業務内容は「法務」。

契約書の発行、締結、リーガルチェック。
新店舗の開発、賃貸借契約。
各種リース契約案件の管理。

……そして。
訴訟案件。

通常、顧客クレームは「顧客サービス」の範囲で処理する。
俺が担当するのは、その外側。
会社のリスクヘッジ。


新体制の初日。
すれ違う視線が突き刺さる。
誰も何も言わない。
俺も何も言わない。
空気が、音を失っていた。

エントランスのガラスが、
朝の光を反射していた。
まぶしいよりも先に、
目を細めた。

デスクの上には、
新しい名刺の箱。
角が立っていて、
やけに白い。

「管理本部 副本部長」

名刺の紙が、
少し厚くなった気がした。

指でなぞると、
体が少し重くなった。

会議室に入る。
ドアが閉まる音が響く。
沈黙が、机の上に均一に並んでいた。

ガラスに映る自分の顔が、
少し老けて見えた。

時計が、
小さく音を立てた。

世界が、少しだけ動いた気がした。
それでも、俺は何も感じなかった。


その日の午後、
俺は取引先のオフィスにいた。

テキスタイル系の取引先。
貨物が遅れたと、慰謝料を請求してきた。

ここまでくると、現場で処理できる話ではない。
俺が出るしかなかった。

事前に、運送約款を確認しておいた。
「遅延による損害は補償しない」
それだけの一文。
それで十分だった。

「誠意を見せろ」

相手は、配達遅延を理由に、損害を主張した。
だが、すでに商品は販売済み。

「では、実損は発生していないということで。
 商品の原価買取による補償であれば、検討の余地はありますが、
 商品は既に販売済みとのこと。
 誠意という意味であれば、会社として正式に謝罪いたします。」

そう言った瞬間、空気が変わった。
「そういう問題じゃないだろう!」
声が弾ける。

俺は、
声を変えずに約款を開いた。

「運送約款第十四条に明記されています。
 配送の遅延による損害については、補償の対象外です。」

沈黙。
相手の呼吸が荒くなる。

「上の人間を出せ」

「私がトップです。上はいません」

相手が、一瞬、言葉を失った。
俺は、静かに書類を閉じた。

「本件はこれで協議終了とさせてください。
 合意内容は、後日、弁護士を通じて正式な書面をお送りします。」

相手は唇を噛み、
それでも頷いた。

沈黙。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。

それで、終わりだった。

申し訳ないとも、
勝ったとも思わなかった。

ただ、
何も感じなかった。


朝のメールを開くと、
トラブルの報告が並んでいた。

契約書の誤送信。
請求データの破損。
顧客からの督促。

どれも、
よくある日常のひとつに見えた。


午後には、別の問題が起きた。
倉庫の在庫が合わない。
伝票も、ない。

誰のせいかを探す会議。
沈黙ばかりが続いた。

その沈黙の中で、
俺はなぜか、笑っていた。


「おかしいですよね」

誰かの声に合わせて、
また笑ってしまった。

笑いながら、
喉の奥が痛くなった。


夕方。
今度は配送車が人身事故を起こした。
保険会社、顧客、警察への対応に社内が騒然としている。

頭の中で、
手順をなぞる。

それなのに、
口角が勝手に上がっていた。

「笑ってる場合じゃないですよ」
総務部長がそう言った。

「そうだな」

そう答えながら、
まだ笑っていた。


夜。
机の上の書類を束ねる手が震えた。

それでも、
笑っていた。

声を出さずに。


反社会的な香りのする顧客から、
直接の配送クレームがあった。

対応を誤れば、
会社に火がつく。

それでも、
俺は妙に落ち着いていた。


呼び出された、
足立区にあるアパートの一室。

大きな神棚に掲げられた半紙が、
冷房の風で揺れていた。

謝り続けていると、
何故か許された。

「もういいわ。帰れ、お前」

謝罪を終え、
ふとアパートの入り口を見ると、
「子ども相談室」と書かれたシールが貼ってあった。

小さなクマのキャラクターが、
笑っていた。

思わず、
笑ってしまった。

呼び出しと沈黙 ― 壊れていく日常

夜。
スマホが鳴った。

「販売センター」の元部下の名前が、
液晶に浮かんでいた。

数秒、見つめたあと、
電話を取らずに切った。

そのまま、
机の上のペンを揃えた。

数日後、
その部下が、パワハラが原因で退職したと聞いた。

俺は、驚かなかった。

「そうか。静かになるな」

そう口にしてから、
自分が、何を言ったのか分からなくなった。


鶯谷駅のホーム。
電車の通過音が、
遠くから近づいてきた。

風が吹き抜ける。
シャツの裾が揺れた。

少しだけ、
身体が前に傾いた。

一歩。

その一瞬、
音がすべて消えた気がした。

手と背中に、
汗が滲んでいた。

俺は何かを掴もうとしたのか。
何故、手を開いたままだったのか。

……覚えていない。

社宅の扉 ― 絶望との対面

中野区担当の所長から連絡が入った。
「社宅に入居している新卒が、三日も無断欠勤している」

新宿の社宅に向かった。

扉の前で、
一度だけ深呼吸をした。

中からは、
何の音もしなかった。

管理人が鍵を開ける。
玄関の光が、
部屋の奥まで伸びていく。

その先に、
彼女がいた。

変わり果てた姿で。

「いいな」と口が勝手に呟いた。

何が、どう“いい”のか分からなかった。

ただ、
そう言葉が出た。


光が、
少し揺れた気がした。


ある日、SNSを開くと、
人事部長が楽しそうにランチの写真を上げていた。

カフェのプレートランチ。
「ご褒美ごはん」とタグがついている。

……暇そうでいいよな。

気づけば、
そのままメッセージを投稿していた。


心臓の鼓動が、
一瞬だけ戻ってきた。

怒りではない。
ただ、体が反応した。


モニターの光が、
指先に映っていた。

それを見ていたら、
急に虚しくなった。

何かを掴もうとした手を、
そっと机に戻した。


その夜。

通知音が鳴り続けていた。
いいね、コメント、メッセージ。

画面の光が、
部屋の壁に反射していた。

まるで、
誰かが生きているみたいに。

崩壊の臨界 ― 嘔吐と救急搬送

会議が終わるころだった。

耳の奥で、
高い音が鳴った。

最初は、
何かのノイズかと思った。

だが、音は消えなかった。
次の瞬間、
世界がゆっくりと、横に回り出した。


誰かの声が、
遠くで響いている。

輪郭がぼやけて、
言葉の意味が分からなかった。

椅子を掴もうとして、
手が空を切った。

立ち上がった瞬間、
視界が歪んだ。


壁に手をついた。
冷たかった。

それでも、
体を支えることができなかった。

床が斜めに傾いて見えた。


息ができない。
汗が滲む。
頭の中が、
遠くでざわついていた。

足音。
声。
何人かがこちらを見ていた。

誰かが、
俺の名前を呼んだ。

だが、
聞こえなかった。


トイレまで、
何とか辿り着いた。

壁を伝い、
扉を押し開ける。

冷たいタイルの匂い。
視界の端が、波のように揺れていた。


吐いた。

胃の中は、
もう空だった。

それでも止まらなかった。

喉が焼けるように痛い。
息を吸っても、吐き気が重なってくる。


何分経ったのか分からない。
ただ、
時間が伸びたり縮んだりしていた。

便座に手をついて、
何度もえづいた。

目の奥が痛い。
世界が遠い。


三十分以上、
吐き続けていたらしい。

手の震えが止まらない。
呼吸が浅い。

目が横方向にぐるぐる回る。

額を冷たい床に当てる。
そのまま、
動けなくなった。


震える手で、
ポケットの中のスマホを探した。

画面の光が、
目の奥に刺さる。

指が滑って、
番号を押し間違える。


「……部下に、繋いでくれ」

声にならなかった。
喉が潰れていた。

何度目かの発信で、
ようやく繋がった。

「……救急車を……」

自分の声が、
別人のように聞こえた。


廊下の音。
足音が近づく。

誰かが肩を叩いた。
何かを言っていたが、
言葉の意味が分からなかった。


サイレンの音が、
遠くで鳴っていた。

それが、
こっちに向かってくる。

赤い光が、
天井を走った。


担架に乗せられた瞬間、
身体が宙に浮いた気がした。

視界が、
白く滲んだ。

音が、
途切れた。


白い天井。
眩しい光。

どこかで、
誰かの声がしていた。

単語だけが、
遠くで浮かんでいる。

「……メニエール病ですね」


その言葉を聞いても、
何も感じなかった。

医者が何かを説明している。
薬の話。
再発率の話。
生活習慣の話。

どれも、
自分のことじゃない気がした。


「重度の鬱の症状も出ています。
 ストレスの原因を、
 できるだけ取り除いてください。
 それも、できるだけ早く。
 それが一番の治療です。」

医者の口が動くたびに、
音が遅れて届いた。

時間が、
ゆっくり波打っていた。

病室 ― 妻の声と崩れ落ちる幻想

病室。
点滴の管が、腕の中で揺れていた。

看護師が、扉をノックした。
「お迎えの方が見えています」

扉の向こうにいたのは――

結婚を理由に退職していった、販売センターのスタッフ。
元・倉庫スタッフの女性。

――俺の妻だった。


「悪い。
 ちょっと調子、崩した」


「…もう……いいでしょ……」

その声に、
少しだけ息が詰まった。


「最近、忙しかったから、ちょっと疲れたかな」

妻の声が、遮った。

「……もう、あなたは十分やってきたでしょう」

「俺は、あの社長の右腕に――」

「もういいの!
 あなたは、あの社長を勝手に神聖化してるだけだよ」

俺が言葉を発する前に、
妻が叫んだ。

「あの社長は、体を壊してまで尊敬する人間じゃないッ!」

静寂。

その言葉で、
長年、胸に巣食っていた“幻”が崩れ落ちた。

「もう、いいかな。
 俺、十分やったかな」


「やったに決まってるでしょ。
 私は、ずっと見てたよ」


「……そうか。
 ……良かった。
 もう良いのか。」




その日、
病気を理由に、俺は会社を辞めた。

世界は静まり返る。
耳鳴りも、怒号も、もう聞こえない。

ただ、
妻と子供達の「おかえり」だけが、
心に響いた。
暖かい音だった。

光 ― 再起動

朝、
カーテンの隙間から光が差し込んでいた。

その光が、
まるで呼吸しているように見えた。

ゆっくりと身体を起こす。
腕に残る点滴の跡が、
まだじんわり痛む。

妻が、
小さなカップにコーヒーを注いでいた。

湯気が、
静かに立ちのぼる。

「今日は、天気いいね」
「うん」

それだけの会話だった。

外の風が、
カーテンの端をふわりと揺らした。

耳鳴りは、もうなかった。
その静けさが、
少しこわいほど心地よかった。

しばらくして、
机の上のノートパソコンを開く。

画面に映る、
真っ白なページ。

指が、
わずかに震えた。

「ねぇ、なに書くの?」
「うん。いろいろ書きたいことが、ね、あるんだ。」

光が、
ゆっくりと広がっていく。

昼下がりのベランダで、
洗濯物が風に揺れていた。

遠くで、
子どもの笑い声が聞こえる。

世界は、
こんなにも明るかったのかと思う。

妻が、
窓越しにこちらを見て笑った。

その笑顔が、
すべての答えのように思えた。

リビングから、
子供たちが駆けてくる音がした。

「パパ、見て!」

小さな手が、
画用紙を差し出してくる。

クレヨンで描かれた家族の絵。
四人が、手を繋いでいた。

「上手だね」

頭をなでると、
笑って走っていった。

妻が、キッチンで何かを切る音。
まな板を叩く、規則的な音。

その音が、
昔、俺が立っていた厨房を思い出させた。

けれど、
もう痛くはなかった。

コーヒーの湯気。
光の粒。
子供の笑い声。

どれも、
生きている証のようだった。

ノートパソコンの空白に、
一行だけ文字を書く。

「生きなおす。」

少し感覚が戻った指先が、
キーボードの上で静かに止まる。

風の音。
光の揺れ。
家族の気配。

それだけで、
もう、何もいらない。

夕方。
窓の外が、
オレンジ色に染まっていく。

「ごはんできたよ」

妻の声が、
リビングに響いた。

子供たちが、
バタバタと席につく音。

俺は、ゆっくりと立ち上がった。

その一歩が、
ずっと探していた場所への、
最初の一歩のように思えた。

「ただいま。」

小さく呟いた。

「おかえり」

妻が、笑って答えた。

子供たちが、
「パパ、早く早く!」と手を叩く。

テーブルの上には、
湯気の立つ料理が並んでいた。

光が、
窓から差し込んで、
家族の輪郭を柔らかく照らしていた。

俺は、ここに帰ってきた。

異世界なんて、
最初からいらなかったんだ。

ここが、
俺の居場所だった。

光が、
そっと肩に触れた。

ー 完 ー


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@atch-k

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atch-k | あっちけい
Visual Storyteller/Visual Literature
光は、言葉より静かに語る。

物流業界で国際コンテナ船の輸出事務を担当。
現場とオフィスの狭間で働きながら、
「記録すること」と「伝えること」の境界を見つめ続けてきました。

現在は、体験を物語として届ける“物語SEO”を提唱・実践。
レビュー記事を単なる紹介ではなく、
感情と構成で読ませるノンフィクションとして再構築しています。

一方で、写真と言葉を融合させた「写真詩」シリーズを日々発表。
光・風・静寂をテーマにした作品群は、
#写真詩 #VisualStorytelling タグを中心に多くの共鳴を生んでいます。

長編ノンフィクション『異世界に行けなかった俺の半生。』は14話完結。
家庭崩壊・挫折・再起を描いた実話として、
多くの読者から支持をいただきました。


あっちけい|Visual Literature / 物語SEO創始
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