
写真詩とは、私にとって「説明しないための言葉」。
写真が上手いか下手か。それはちょっと放っておいてほしい(笑
写真を撮ったとき、私はたいてい何も語らない。
いや、語れない、という方が近いのかも。
光の向きや、人が去ったあとの気配、早朝の空気。
それをそのままSNSに置くしかない。
写真だけでは、どうしても足りない瞬間がある。
音が抜け落ちる。
温度が消える。
人がいた気配がなくなる。
シャッターの前後にあった、ほんの数秒の揺れがなかったことになる。
その消えた部分を、私はどうしても消したくなかった。
写真には映らないけど、確かにそこで感じたこと。
だから写真に詩を添える。
私は、詩に感情を書かないようにしている。
「寂しい」とも「切ない」とも書かない。
本当はめちゃくちゃ怒っている日もある。
痛めつけられて泣きそうな日もある。
けれど、それをそのまま出すと、ただの愚痴になる。
だから私は、ロープが軋む音を書く。
信号が色を変える瞬間を書く。
風がコートの裾を引いた、その事実を書く。
すると、動かない写真の奥に、時間が流れはじめる。
写真詩は、写真を飾るためのものじゃない。
写真を補強するための説明文でもない。
むしろ逆。
写真の後ろに回り、そっと押し出す役目を持っていると。
そう考えている。
言葉が前に出た瞬間、写真は負ける。
だから私は、いつもちょっとだけ引く。
写真を撮ることと、詩を書くこと。
その間にある僅かな沈黙。
私はそこを掬っている。
写真詩とは、私にとって「写らなかったものの記録」。
写真を説明せず、私の感情も出さない「キャプション」。
そしてたぶん、
私はまだ、
写真詩とは何か、
自分でもわかっていない。

