
トヨタの80系ノアハイブリッド。
俺の愛車の走行距離はついに15万キロを超えた。
毎日、往復80kmの道のりを文句も言わずに走ってくれる頼もしい相棒は、 今年の9月には車検を控えている。
「買い替え?」 するわけがない。
俺はこいつが潰れるまで乗り潰すつもりなのだ。
◇
そんな愛車に異変が起きたのは、ある朝のことだった。
会社に到着する直前、インストルメントパネルに「エンジン警告灯」が点灯。
ついに来たか、という思いはあったが、
「まあ、車検のときにしっかり診てもらえばいいか」とその時は軽く流した。
仕事を終えて、帰路につく。
エンジン警告灯はすでに消えており、ノアはいつものように快調にエンジンを回し始めた。
「少し駄々をこねただけか。ハハハ。ういやつよのう」
そんなことを考えながらハンドルを握っていると、千葉県は市川市、本八幡のあたりに差し掛かる。
今日は日曜日。
市川市民大好き大型ショッピングモール「ニッケコルトンプラザ」の周辺は、案の定、地獄のような大渋滞が発生していた。
上りも下りも、車列は完全にピタリと止まっている。
(うわぁ……違う道にすればよかった)
後悔しかけた、その瞬間。
ふたたび黄色いエンジン警告灯が点灯。
嫌な予感が背筋を走る。
渋滞の渦中で身動きが取れずにいると、かぶせる様に、今度は「水温警告灯」まで赤く灯り始めた。
ピー、ピー、ピー、ピー――
これはまずい。
車内に甲高い警告音が響き渡る。
マルチインフォメーションディスプレイが点灯し始めたので視線を移すと、容赦のない文字が浮かび上がっていた。
【0.5km以内に車を安全な場所に停車させてください】
完全に緊急警告じゃねえか!
焦る。めちゃくちゃ焦る。
だが、どうしようもない。この超絶渋滞を抜け出すには、どうあがいてもあと1時間はかかる。
ピー、ピー、ピー、ピー――
鳴りやまない警告音。
追撃するように流れる「プリクラッシュセーフティ故障」の表示。
エンジン警告・水温警告・安全装置故障の絶望感。
やめてくれ。頼むからまじでやめてくれ。
車外の気温は30℃を超えているというのに、俺の背中には不気味な冷や汗が流れていた。
ピーーーーーーー。
それがノアの最後の悲鳴だった。
画面にカギのマークがポッと表示されると同時に――
ノアは完全に沈黙し、動かなくなった。
上下線ともに大渋滞の片側一車線。
そのど真ん中で完全に息絶えた一台のミニバン。
俺は半ば絶望しながら、遠い目でその光景を俯瞰していた。
天の上から見下ろした俺の姿は、一体どれほど哀れに見えるのだろう。
こんな惨めな死に様でも、死んだら北欧神話のオーディンが待つヴァルハラへ行けるのだろうか。
――ハッ!
現実逃避している場合じゃない。
ハザードを焚いて立ち往生する俺の車の後ろでは、後続車のドライバーが目を点にして固まっている。
「お前、俺の目の前で何しとんねん。車を手で押してでも動かんかいボケェ」
そんな声が聞こえてきた。
南無三。
ダメ元でエンジンスイッチをオン・オフしてみると、奇跡的にロック表示が消え、車がノロノロと動き出した。
各種の警告灯は点灯しっぱなしで、アラームも鳴り響いたままで息も絶え絶えといった状況だが、とにかく今は車を退避させなければならない。
緊急事態だ。
多少の無茶は神様(オーディン)も許してくれるはず。
俺は目の前にあった見知らぬ企業の出入り口へ、勝手にノアを滑り込ませ停車させた。
日曜休みっぽかったのが唯一の救いだ。
ふぅ……ひとまず最悪の事態(道路の完全ブロック。市川市民からのヘイト集中)は回避できたぞ――
ブシューーーーーーッ……!
安堵したのも束の間、ボンネットの奥から激しい水蒸気と嫌な音が噴き出した。
「君とのドライブ、今まで楽しかったよ。ありがとう」
そんな愛車の声が聞こえた気がした。
その景色がやけに美しく見えた。
絶望。
終わった。
俺のノア、本当に終わった。
◇
車は止めた。
次は……ディーラーだ。 震える手でスマホを取り出し、整備担当者に電話をかける。
「ああ……それはもう絶対に動かしちゃダメなやつですね。すぐにレッカーを手配してください」
即答だった。マジかよ。
続いて、任意保険に付帯しているロードサービスを呼ぼうとする。
……が、連絡先がわからない。
そういえばペーパーレス化して、紙の保険証券を解約したんだった。
スマホで保険会社のマイページにログインしようとするも、今度はIDとパスワードが出てこない。
電話だ! カスタマーセンターに電話しよう! 慌ててスマホで電話番号を検索し、さあ掛けようとした瞬間
――スマホがない。
……いや、今まさにそのスマホで番号を調べていたのだ。
パニックのあまり、自分の手にあるスマホを探す始末。
動揺が隠しきれない。
それでもどうにかカスタマーセンターに電話が繋がり、レッカーの手配を完了させた。
◇

1時間後。
見知らぬ会社の出入り口に、頼もしいレッカー車が到着した。
「大変でしたね!車はしっかりトヨタの工場に届けますね」
職人技で俺のノアを手際よく積み込むと、ドライバーは爽やかな笑顔を残して去っていった。
……あれ? 俺は??
取り残された俺は、再び保険会社に電話した。
「あ、お客様は電車かレンタカー等を利用してご帰宅ください。レンタカー代なら24時間分まで出ますので」とのこと。
スマホで近くのレンタカー屋を探すが、ここからはかなり距離がある。
車から降ろした重たい荷物を抱えて歩いているうちに、ウォーキングで痛めた腰が急速に悪化し始めた。
息も絶え絶えに歩くが、遠い……遠すぎる。
これは目的地にたどり着ける気がしない。
俺はレンタカーを諦め、最寄り駅(京成八幡駅)へ向かって歩くことにした。
両手には、故障車から引き揚げた大量の荷物。
一歩足を進めるたび、腰に激痛が走る。
これは……痛みで動けなくなるかもしれない……。
その時、ポツリと額に冷たいものが当たった。
瞬く間に勢いを増す雨。
当然、傘なんて持っていない。
俺は泣いた。
痛みと悔しさと悲しさが同時に吹き出した。
この瞬間だけなら、俺は間違いなく「今日本で一番不幸な奴ベスト50」にはランクインしているはずだ。
下手したら、上位10位以内に入っているかもしれない。
俺の目からこぼれ落ちた涙を隠すように、冷たい雨が容赦なく顔を撫でていった。
傘をさしながら笑顔で歩くカップルが、霞んで見えた。
(完)

